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當田アストリットについての言葉


※ 下が最新記事です。
 

皇后陛下が當田アストリットを謁見される

 

Kaiserin von Japan

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皇后陛下、美智子さま(右から3人目)は2007年11月東京で開催されたバザーの後援者として當田アストリットのスタンドを訪問され、その後彼女を謁見された。皇后陛下は當田アストリットのベナンでの活動に大きな関心を示され、彼女の貢献を称賛された。

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ベナン共和国大統領から當田アストリット宛の書簡

 

Präsident Benin

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當田アストリットは、ベナン共和国大統領が彼女のベナンにおける子供の教育に長年熱心に活動していることについてベナン政府と国民と共に感謝している旨の大統領府よりの2007年1月15日付書簡を受け取りました。

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デニス・グレーガー君のベナン訪問についての報告
2008年8月初頭
長いことアフリカに興味があった。アフリカ人の性格、習慣、文化が長年、僕の興味をそそり、ずっとチャンスを待っていた。まずは自分の持つアフリカについての貧しい情報を増やし、一度本物を経験してみたかった。決してサファリ休暇とかお仕着せの旅行で5つ星ホテルに泊まって、柵で囲われたホテル所有の海岸で日光浴をし、それから友人や親戚の連中にアフリカに行ったが、結局は何も見ていないなどと自慢げに話したくはなかった。僕はアフリカの何かを見たかった、それを経験し、人と接触してみたかった。昨年ハノーファー近郊の故郷でアビトウア(大学入学資格試験)を終えた頃、実は兵役代替の民間奉仕役務を西アフリカのいろいろな場でやりたかった。だが、これは実際にあまりそういった求人の件数がなく、そのため求職者の選考が厳しく、思うようには実現しなかったから、アフリカでの経験を実現する前にまずは民間役務をバート・ライヘンハルの病院で済ますこととなった。その後に生じた6月初めから、9月初めに大学が始まるまでの自由時間を有意義に使おうと思った。

そもそも僕の願いは僕よりもずっと条件の悪い生活を不運にも送っているような人たちを助けることだった。他方、確実に思えたのは、自分が慣れたのとは全く異なる状況に長く滞在することが僕の将来の人生にとって重要な経験をもたらし、僕の視野が非常に広くなるだろうということだった。

どちらかと言えば偶然に、その後アストリットのホームページにぶつかり、僕たちはメールで、3ヶ月程度ベナンに滞在し、とても意義あるように思える現地での学校建設に協力することで合意した。費用の自己負担は僕にはそこまで気を落とさせる事柄ではなかった。なぜなら、このような滞在は僕にとって自分の車とか新しいテレビを購入するより、ずっと意味があると思えたからだ。

そうして僕は6月の半ばに慣れた世界とは全く違ったところへ出発した。多くの事柄がテレビを見ているようだった。赤い砂ででき、穴ぼこだらけの道路、少なくとも3人か4人は乗り合わせている二輪車、みなヨーロッパには見られない。同じように、小さなぼっとんトイレでは、その前に2本の紐で天井に結ばれたトイレ用の紙がゆれていた。シャワーは飾り気のない小部屋にバケツと水を汲むボウルがあるだけ、それにここでは洗濯は手でしなくてはならない。これらは前から予想できたことで、なんとか順応できた。けれども僕がかなり順応しにくかったのは、アフリカ人、その習慣、風習、生き方だった。僕は何冊か本を持っていて、特にアストリットの本で、このテーマについて読み、またアフリカ経験のある人たちと話をする機会も何度かあった。しかし、自分で経験するのとは大きな違いがあると思う。旅行の前には、僕は正直言って、アフリカ人と、まだ一度も会ったことのないアストリットが僕をどのように迎えてくれるかひどく気になっていた。

アフリカ人の性格は大体想像していたように経験した。人の陽気さやオープンなことに僕は何度も感心した。歓迎の挨拶はたいてい心がこもっていて、何をおしゃべりしようと、よく笑い、冗談を言う。僕に初めて会うときの大歓迎にもよく驚いた。自分自身や子供たちをやっと食べさせていけるので幸せであるというような家族を訪問しても、僕にビスケットやバナナの盛られた大きな皿と、わざわざ買い求めた飲み物が出されるが、このようなこの地での美味をいただくのはほとんど良心がとがめる。何故なら、この子供たちはこのような物は長いこと口にしたことがないのは確実だからだ。けれどもこの贈り物を受け取らないのは大変失礼で、殆ど無知ともいえるので、自分でちょっとかじり、後は子供たちに分ける。迎えてくれた家族の目にはほとんど僕の珍しい訪問の価値を認め、僕に喜びを与えることができたという満足が見える。

総じて、村の中での僕の位置についてはポジティブな驚きがあった。この村で僕が驚くほど知られていることや、村の外でも、まだ会ったことのなかった人たちから、名前を呼ばれて挨拶されるのは、多分、ここらの周辺に白人が他にいないことによったのだろう。村人とのおしゃべりで分かったのは、驚いたことに、僕がこの建設作業を手伝っているのが彼らにとって誇りであり喜びであることだ。話をすると、「ここに来てくれて有難う」などとよく聞いた。それから実に注目すべきことは、実に頻繁に、大体食べ物の形の贈り物をもらったことだ、それも隣人やほとんど知らない人からで、僕が村で仕事をしているのを評価してくれたのだ。あるとき、ココヤシの収穫を見た時など、特に意識せず考えなしに僕が言った、ココナッツを食べてみたいというコメントで、もうすぐ後には初物の2個のココナッツを贈り物に得たということもあった。多くのお喋りのあと、わかって残念だったのは、家族の一員と話す場合はともかく、それ以外の場合の会話の皮相的なことだった。村人全体にかかわる問題については僕とは話したくないらしく、このテーマについて追求すると、いつも後味が悪かった。

僕が実行した開発援助の長所は僕の仕事自体にあるようには見えない。僕がやったからと言って、仕事は本質的に速くはならないからだ。なぜなら、いざという時には、村人はかなり手伝う気持ちがある。それに10歳の左官見習いでも、僕のような暑さに参っているヨーロッパ人と同じくらいたくさんのレンガを頭に乗せて運べるのだ。僕の仕事の本質的な価値は民族の相互理解にあると思う。ここにいる人たちにとって白人が黒人のもとで建設現場にいるのが特別のことなのだ。それも自分の意思でそうしているのだから。最初のうち、誰か読み書きができず、9x8が何か答えられないような人間に命令されるのには少しばかり反感を持った。最初、この労働者たちは僕をこき使うのを楽しんでいるのだろうと思った。けれども後になってこの命令口調は彼らの比較的ブロークンなフランス語のせいであり、事態への無理解の結果ではない、そして、彼らは本当は僕を実に心から受け入れて扱っているのがわかった。これを確認してからは仕事は真実楽しくなった。仕事の雰囲気は非常によく、僕は左官が好きになった。

今ここに上げた印象は僕の仕事と滞在にかかわっている。「連帯の学校」の建設プロジェクトは、だが決してただの民族理解ではない。この間に僕が初めて意識したのは、教育がどのような価値を持ち、それが欠落すると、将来の職業生活にどのような影響を与えるかだった。例えば、鉄筋工と一緒に僕は働いたのだが、彼は自分が建てた教室を室内から眺めていただけなので、学校に通っていない彼には材料の計算が恐るべき大問題だった。一棟・3教室のために必要な鉄材の本数は知っていたのに、1教室ごとの概数が計算できなくて、その結果、僕らは3度も追加注文しなくてはならなかったのだ。ここから僕には想像できる、雇い主というものはこういう事態はそう長いこと見てられないから、次の機会にはきっと違う専門家を雇うだろう。ちょっと考えてみても縫い子や大工など、いろいろな職業があるが、彼らの場合も数学を知らないと、非常な障害を引き起こすように思える。だからこそ、このような基礎教育への参加を可能にすることがさらに重要になる。

サトレの高校について考察すると、今440人の生徒たち、特に女生徒たちが中学卒業の資格を取ろうとしていて、またその多くが後にはアビトウアも取ると考えると、学校というものがこの地方の発展に非常に寄与するのがわかる。国連の言う、基礎教育が人間の基本的必要性の一つであるというのも間違っていないが、ただここでは残念ながら広域にみればかなり満たされていない。これらのプロジェクトは将来の生活レベルの持続的な改善の重要な前提になると思う。昔自分たちが学校へ行くという特権を得られなかった両親たちの一部が、教育的程度の高い子供たちは親を尊敬しなくなるという心配のために自分の子供たちを学校へ行かせないことが残念ながらある。しかし学校の校長先生は学校には生徒が不足することはなく、それどころか、第5校舎とか第6校舎ができても、問題なく生徒達を集められるだろうと僕に話のなかで確約した。440人の生徒達が3校舎の、今のところ7教室に分けられると計算してみると、これは60人の生徒が各教室に入ることになる。9x7メートルの部屋はだいたいドイツの教室程度だから、そこは余裕があるというにはほど遠い。けれどもその若い人たちはその教室を使えるのを喜んでいる。この土地ではドイツ的状態を完全に作り上げるのは出来ないことを明確に頭に入れておかねばならない。

ここでの質素な環境での生活には比較的簡単にすぐに慣れることができた。それは多分、僕があらかじめ無意識のうちに最大の心構えをしていたことかもしれない。それでも、最後にマクドナルドの店に行った時やドイツの新聞を読んだ時から時間が経つにつれて、ここの住民のほとんどが聞いたこともないか、あるいは不要な贅沢なものとみなされる物事への願望・欲求が僕の中に沸いてきた。時とともに、建設作業をしながらの村の生活はやはり身体を消耗させた。ここでした経験によってドイツでの生活や、僕らの特権で、以前は多くは煩わしい義務だと思っていたものの本当の価値を学んだと僕は思う。この旅行が僕にはすごく気にいり、この滞在が大変な喜びをもたらし、もう一度ここへ来ることができればと重い心で考えるとはいえ、再びドイツに戻るのが本当に嬉しい。

最後に付け加えたいのは、これらの印象や事実は初めの2ヶ月のものであることだ。あとおよそ一月、僕にはまだ驚きや緊張や新しい印象や出会いが残されている。けれども2ヶ月の時間が過ぎ去って、いくつかの事柄はもう当り前になり、日常的なものに移り変り、これらのことにはもういまさら注目すべきことだと感じなくなった。ここでの多くの重要な事実と特別な相違点は、僕が再び「文明的環境」に戻ってから、本当に意識されると思う。その時まで僕はここでの時間を楽しみ、アストリットに歓迎され、助けてもらっているのを喜びたい。

デニス・グレーガー

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エコール·ド·ソリダリテでの活動報告
赤石 瑞恵 (日本人)

2012年11月、ドイツで活動していた公益社団法人ひゅうまねっとの紹介でNPO法人エコール·ド·ソリダリテで3週間ボランティアさせて頂きました。

私が関わった期間中の主な活動内容は、学校建設におけるプロジェクトマネージメントと現場管理、女子生徒の登校率向上に向けた地域への働きかけ、各ステークホルダーに対する資料作成に加え、メンバーと繰り返されたNPOの方向性と教育支援のあり方についてのディスカッション等、国際開発現場での活動は内容の濃い充実したあっという間の3週間でした。

開発における「教育」分野の重要性はもちろんの事、私が住む世界とは全く異なる文化や価値観の中でプロジェクトマネージメントを進めるにあたっての気の遠くなるような困難の数々とそれらを1つ1つ解決して行く決断力と行動力、また各ステークホルダーの意見を融合させながら彼らが主体的に進める参加型のプロジェクトであり続ける意義について等、様々な壁を乗り越えて初めて完成する責務だと学ぶと共に、開発のあり方について深く考えさせられる貴重な体験となりました。

開発現場での経験が初心者の私に対してアストリッドさんをはじめNPOメンバーの皆さんには終始暖かいサポートを頂き、またどんな時も真剣に応えて下さいました。彼らの行っている事や達成しようとしている事、またどのようにそれらを達成しようとしているかを含め全てに深く感銘し感謝しています。彼らに出会えたことは私の誇りであり、ここでの経験は生涯を通して生きる大切な学びであるでしょう。

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